信仰と私

宗教アレルギーの私と信仰について自由に書いています

闇を知る

見は志向作用(行)より起こり、そして構築されるものである。これは個人が冷静に選択できるような中立な選択肢といったものではなく、「条件付け」によって発生する症状なのである[1]。パーリ経典において、ブッタは涅槃に達した状態であれば、「束縛、結縛、貪欲、妄執、執著、愛着、見への固執」を「超越する」と語っている[3]。Wikipediaより

 

お花畑なブログを見て裏を取ろうといろいろ調べて、何アホなこといってんの

とマウントを取った気分になる。そして気になることを調べる。

確かに面白いが、もっと他にやることないのか?

と思っていた。結構それで時間を使っていた。

図書館で借りた小池龍之介氏の本で「見」を知る。

自分は賢くなってなんかいない。

自力とはたかだか小賢しくなった自分の力

上から目線て思う自分は何者やねん

と突き刺さる。

そこから何故か

昔、聖書物語って読んだけど子供向けの物語って終わりは啓示の書まであったかな?

と興味本意でアマゾンで調べていく中で

聖書アプリを知る。

聖句を聞くというのは、はるか昔、まだエホバの証人の子供であった時代にテープで聞いた以来であり、懐かしいながらも、新鮮であった。

聖書アプリのルカの書を聞く。復活祭の時期なので、イエスキリストがイスカリオテのユダに裏切られ十字架に貼り付けられるところを聞く。

通勤の車で涙が溢れてきた。

「お前はメシアでないか。我々と自分自身を救ってみろ」

エスキリストと同じくはりつけにされている罪人が侮辱する。

別の罪人がたしなめる。「あなたは神を恐れないのか。この方は何も悪いことはしていない。」「イエスよ、御国においでになるときは私を思い出して欲しい」

エスは答える。「今日あなたは私と一緒に楽園にいる」

ここを聞いて、はっきり自覚した。

自分も「メシアなら自分を救ってみろ」と言う方だっただろうと。

自分のどうしようもない他人に対しての嫌な部分。

たしなめた罪人が自分は罪を犯したのだから当然の報いだと、受け入れたこと

エスキリストがお救いになったこと

私も今、これを聞いて救われているのだと、唐突に自覚した。

その瞬間から回りの空気が柔らかく感じた。それは不思議な感じであった。

嫌いな上司のことも気にならなかった。あの人にはあの人の立場とやり方がある。ひとつ分かったこと。私が嫌っていたこと。その私はひとかどの者だろうか。私は自分の目の前の仕事をしよう。するべきことは山ほどある。

柔らかな空気を感じたままであった。

玄関先の花も緑も目に映る自然が皆、神から差し向けられたものに感じた。私はあなたを見ていますよ、というメッセージを感じた。東に昇った月は丸く、あたりを照らしていた。先のメッセージを強く感じた。

今までが、闇であったのだ。

私には衝撃的で感動的な瞬間だった。

この感動があれば他に何もいらない。思い煩わない。

 

その瞬間を留めておきたいとともに

誰かに伝えたくなった。

けれども誰が信じるであろうか。目の前の夫に話したら馬鹿にされるだろう。

 

そう思ってここでのみ記すことにする。

追記

復活祭の日から3日前。イエス様がなくなった日に私はメッセージを受け取れたのであった。