信仰と私

宗教アレルギーの私と信仰について自由に書いています

旧約聖書の面白い所

聖書を読み出して3週間余り

創世記からようやくサムエル記第2までである。

子供の頃に読んだ聖書物語とはまた違った味わい。

イスラエルの民って本当に背いては謝り助けてもらい、また感謝を忘れて背いて。祈りを忘れて。すぐ、バアルの神にいっちゃう。

バアルは信じないけどそれは

私の姿そのもの。

 

原罪とは何か。そこが最初わからなかった。

アダムとエバの犯した罪は何か。

→不信仰

ならば従うように人間を作れば良かったのでは。

でも従うように作って従ってもらってもうれしい?

自由に意思を持つものから信じられ従われるからうれしいのだし。

子供に「もうそこまで言うならやるよ!やりゃいいんでしょ!」って手伝ってもらってもうれしくない。それな。

 

神は必ず約束を守る。

信じて助けを乞えば応えてくれる。

信じてなかったらそれを見抜いてどんなに捧げ物をしてもムダ。律法に従っても応えてくれない。

ただ信仰あるものが謝罪すれば許して下さる。けれど悪の結果は帳消しにはしない。

 

と私なりに理解をする。

予想以上に旧約聖書はドラマチック。

ムダにあきらめない男、喉元過ぎれば熱さ忘れるファラオ…

モーセを待っていられず金の牛を作って拝む民。怒ったモーセに言い訳するアロン。(金を火に投げ入れたら出来ましたってアンタ…)

振り返って塩の柱になったロトの妻

(私もそうなるかも!自戒。しかし、父を酔わせて子を作る娘二人には理解に苦しむ。)

ダビデを執拗に追い回すサウル(精神的に不安定な人だ…ダビデに許されて泣いちゃうのにまた追い回す。でもその気持ちも少しわかる。認められたいのね。)

人妻に惚れて罪を犯すダビデ(あ~あ。男って奴は)

今も昔も人間の本性は変わらない。

だからこそ自分の姿と被るし親近感を抱く。信仰の反面教師にもなる。