信仰と私

宗教アレルギーの私と信仰について自由に書いています

信じたその先

4月にいきなりキリストと出会ってから4か月
聖書アプリによれば、信仰が薄れやすくなるのが7月、毎日聖書を開くよう新しい読書プランを薦めてくる。
デボージョンは合うものもあれば合わないものもある。
そろそろ信仰が薄れますよとアドバイスされたけど
私はイエスキリストに引き上げられた気がする。
復活して天におられるイエスキリストに、あなたも来なさいって言われている気がする。
そこだけは実感として確かなのだ。
でも、でもだ
まだ終末論が信じられないのだ。
携挙とか千年王国の到来とか物理的に信じられる?
自分が死んでその後にイエス様の国に行くのなら信じられる。でも今、子供を残していきなり消えるように携挙されて、空から家族が滅んで行くのを見るの?
台風も地震も地球上の気候の変動の影響で終末のしるしとは信じられない。
どんなにパウロが、論理的に語ろうが、その辺りの疑問には答えられないし神様のみわざだと断定できない。
それなのになぜ自分はキリストの復活は信じられるか分からない。
まだ私には全て信じる用意がなされていないのか、これも神の導きととるかそれこそ神のみぞ知る。

疑い

私の職場には阿弥陀様の仏像がある。

毎日通りすがる。

背を向けていても見ていて下さる

といった張り紙もされている。月毎に替わるらしい。

見ていて下さるって思えたらずいぶん幸せだよね。私にはどうしてもそれが信じられないけど。

と思って毎日通り過ぎていた。

若い僧侶に聞いた。「なぜ信じられるのか」

「信じないで人生を送る方が僕は信じられない!不安に駆られませんか?信じるから安心して生活できるのに」

また別の若い僧侶にも言われた。「俺だって寺に生まれたけど、もし仏様がいるなら俺の貧乏を救ってくれよと思いながらバイトしてたよ。」

そう聞いても不思議にしか思われなかった。何を言ってるのだろう。羨ましくもあるけども。結局は仏様は人が作り出したものじゃないの?

阿弥陀様はどこから来たん?お浄土に帰る言うけどほんまにあるん?みた人おる?

という気持ちで法話もお勤めも見ていたのである。しかし唯一理解できたのは、人は自力ではどうもできない。自力というのは確実でない。不確かなものである、という謙虚な姿勢である。

疑いの気持ちがあると悟りは開かれない

とお勤めの教本にある。

エホバの証人もまずそこを洗脳される。

宗教は結局マインドコントロールだよ。と思う。

だけどもだ、神様が見ておられると実感した時から、それは疑いようのないことだ、と感じる。この涙は嘘ではない。感情的になっているだけだろうか?

あの時は何だったのだろう、何かにかぶれていたのか?と冷める時が来るのだろうか?

疑うという行為には、ひとまず信じる感情は置き去りにされる。

思考している間に何か自分が世界を分かったようないい気分になるかもしれない。

けれども思考の果てに自分が、もうそこから何も考えられないという崖っぷちに突き当たるのだ。その崖の下も上も宇宙が広がる所にいるような。私の場合は眠くなる。

自分が、ここに、ある

ことしか分からないのだ。

結局疑いきれない。

それならば疑わないで生きる方がよっぽど楽であろう。

今はそう思える。何故信じるのか?私も聞かれたらこう答えるであろう「信じないで人生を送る方が信じられない」と。

旧約聖書の面白い所

聖書を読み出して3週間余り

創世記からようやくサムエル記第2までである。

子供の頃に読んだ聖書物語とはまた違った味わい。

イスラエルの民って本当に背いては謝り助けてもらい、また感謝を忘れて背いて。祈りを忘れて。すぐ、バアルの神にいっちゃう。

バアルは信じないけどそれは

私の姿そのもの。

 

原罪とは何か。そこが最初わからなかった。

アダムとエバの犯した罪は何か。

→不信仰

ならば従うように人間を作れば良かったのでは。

でも従うように作って従ってもらってもうれしい?

自由に意思を持つものから信じられ従われるからうれしいのだし。

子供に「もうそこまで言うならやるよ!やりゃいいんでしょ!」って手伝ってもらってもうれしくない。それな。

 

神は必ず約束を守る。

信じて助けを乞えば応えてくれる。

信じてなかったらそれを見抜いてどんなに捧げ物をしてもムダ。律法に従っても応えてくれない。

ただ信仰あるものが謝罪すれば許して下さる。けれど悪の結果は帳消しにはしない。

 

と私なりに理解をする。

予想以上に旧約聖書はドラマチック。

ムダにあきらめない男、喉元過ぎれば熱さ忘れるファラオ…

モーセを待っていられず金の牛を作って拝む民。怒ったモーセに言い訳するアロン。(金を火に投げ入れたら出来ましたってアンタ…)

振り返って塩の柱になったロトの妻

(私もそうなるかも!自戒。しかし、父を酔わせて子を作る娘二人には理解に苦しむ。)

ダビデを執拗に追い回すサウル(精神的に不安定な人だ…ダビデに許されて泣いちゃうのにまた追い回す。でもその気持ちも少しわかる。認められたいのね。)

人妻に惚れて罪を犯すダビデ(あ~あ。男って奴は)

今も昔も人間の本性は変わらない。

だからこそ自分の姿と被るし親近感を抱く。信仰の反面教師にもなる。

 

 

 

信仰と子供

子供には聖書物語が、単にお話として面白いようである。
杖を立てたら川の水が割れたんだって!そんなことほんとにある?神話みたいだねえ。
と言っていた。
そうねえ…と返した。

昔の私の母なら、大真面目に「本当よ」といかに信仰を持つかを諭しただろう。
私はそれはしない。
自分がされて嫌だったし悩まされたからだ。

子供の権利条約に、思想・良心および宗教の自由についてという項目がある。(第14条)

子供にも信じる信じないの自由があるんだ…
と中学生の時に感動した。

聖書は、強制されて読むものでもない。
信じろと言われて信じられるものでもない。ましてや、信じなかったら滅ぼされる、と脅すものでもない。

ただ、存在さえ知っていてくれたらいい。
恋愛、就労、結婚、子育て、介護と長い人生を歩むうちに必要になったら思い出してくれるだろう。

そんなゆるい考え方しかできません。どうか主の御心のままにお導き下さい。
と祈った昨夜であった。

闇を知る その後

前回まで→「闇を知る」

アホな私は一昨日あれほど感動したというのに以下のような心もち。

①誰かに知らせたい、誰も信じてくれそうもないのでブログに書く

②本当に私は感じたんだよね?と一瞬疑う。取り消す。

③私は今から何をなすべきだろうか

かといってエホバの証人みたいな組織はお断り。

④子供の時には、読まされるものでしかなかったパウロの手紙が自分に宛てられたように感じる。

⑤これらの感覚を忘れないようにするにはどうしたらいいだろう。食事前のお祈りでさえ忘れてしまうのに。

⑥神の御国とは何か

人間の時間軸だと、始まりと終わりがある。

その時間軸に因って人間に分かりやすく伝えるために、天地創造とハルマゲドン、神の御国の到来が書かれたのではないか。

実際には始まりも終わりもなく今が連続している。何十年、何百年後に実際にハルマゲドンが起こる訳でなく、もしかしたら、何百年経っても聖書を開いたその人にメッセージが届くようになっている?のかも。

⑦人間と神

なぜ神はすべての人間を思い通りになるように作れなかったのか

全部思い通りになったらつまらないから?

うーん、私なんかが考える範囲ではない?

⑧私自身の罪はなんとなく分かった。では敵、サタンとは何を指すか

サタン、悪魔は自分の中にあるのではないか。

聖書の中の「敵」は歴史的見地からみたらまさしく国を脅かす敵と読める。

敵を設定しておいて選民思想を作り出すため?←そういう考え方はキライ。

 

子供の頃、母親に神が天地を創造したならその神は誰が創造したんだ?と尋ねたら

これは神のみぞ知ること

と言われた。

ま。たしかにね。子供には納得させられないね。まだまだアホな頭で考える。

あ、考えたらあかんのかな

 

分かりやすさにご用心

分かりやすく言うと◯◯

一言で言うと◯◯

この件の問題は◯◯と◯◯

会議でこんな発言している人はデキルなーっ感心する。

よく聞いていると言葉はカッコ良いだけで「何言ってるの⁉️」

「…で、具体的にはこういうこと?」てアホな質問をして会議の流れを止めるオバハンは私である。



分かりやすく教える人ってどの世界にもいる。

でも私は騙されやすいので、逆に分かりやすくキラキラしている人の話は感激するが、疑ってしまうのだ。

もし私が聖書の時代にいたら、イエスキリストの話を信じたか。

復活した姿を信じたか。復活した姿を見た使徒達の話を信じたか。

疑わしいね。あれは分かりやすいけどデマだよ危険だよと言われれば流されたと思う。

今でもそう。

聖書の解釈を分かりやすく教える組織にアレルギー反応を起こす。学術的なことだけなら理解の助けになる。

私の勉強不足かもしれないが

①今、あなたは選ばれている、とこちらを良い気分にさせる

②異端は◯◯と◯◯だと他の宗派や宗教を責めだす

③世の終わり、神の国の到来は近い、と言う

これらを聞いたり読んだりするとどうしてもアレルギー反応が起こり、学術的な理解に助けを得られただけに心底ガッカリする。

②は、ネットにもいませんか?情報商材や偽物コンサルに騙されるな、て書いてる人もコンサルじゃん、て手合。

神の国、来る来る言って2千年経ってない?

来る来る言って来ない地震、みたいだな。

静岡県民は40年前から大地震に備えていた。(今の学校はどうか知らんが詳細はちびまる子ちゃん2巻)

子供同士で「先生の言う大地震ていつ来るのかな」と呟いてたものだ。防災頭巾でホントに頭守れるかなとか便所にまたがっているときに地震が来たら嫌だなとか、些末なことを心配していた。

話は反れたが、祈る時に、あなたの王国が早く来ますようにって言えないのだ。信じきれてないから。子供の時は平気で言っていたけども…(子供の時は、あなたが大人になる前にハルマゲドンが来るから高校も行かなくて良いと言われたし…)



もうすぐ神の国が来ますって言われて、いつ来ます?ってアホな質問はしない方が良いだろうか。しない方が良いだろうな。



とにかく分かりやすいものアレルギーである。そういや小泉首相の演説も好きじゃなかったな~。

闇を知る

見は志向作用(行)より起こり、そして構築されるものである。これは個人が冷静に選択できるような中立な選択肢といったものではなく、「条件付け」によって発生する症状なのである[1]。パーリ経典において、ブッタは涅槃に達した状態であれば、「束縛、結縛、貪欲、妄執、執著、愛着、見への固執」を「超越する」と語っている[3]。Wikipediaより

 

お花畑なブログを見て裏を取ろうといろいろ調べて、何アホなこといってんの

とマウントを取った気分になる。そして気になることを調べる。

確かに面白いが、もっと他にやることないのか?

と思っていた。結構それで時間を使っていた。

図書館で借りた小池龍之介氏の本で「見」を知る。

自分は賢くなってなんかいない。

自力とはたかだか小賢しくなった自分の力

上から目線て思う自分は何者やねん

と突き刺さる。

そこから何故か

昔、聖書物語って読んだけど子供向けの物語って終わりは啓示の書まであったかな?

と興味本意でアマゾンで調べていく中で

聖書アプリを知る。

聖句を聞くというのは、はるか昔、まだエホバの証人の子供であった時代にテープで聞いた以来であり、懐かしいながらも、新鮮であった。

聖書アプリのルカの書を聞く。復活祭の時期なので、イエスキリストがイスカリオテのユダに裏切られ十字架に貼り付けられるところを聞く。

通勤の車で涙が溢れてきた。

「お前はメシアでないか。我々と自分自身を救ってみろ」

エスキリストと同じくはりつけにされている罪人が侮辱する。

別の罪人がたしなめる。「あなたは神を恐れないのか。この方は何も悪いことはしていない。」「イエスよ、御国においでになるときは私を思い出して欲しい」

エスは答える。「今日あなたは私と一緒に楽園にいる」

ここを聞いて、はっきり自覚した。

自分も「メシアなら自分を救ってみろ」と言う方だっただろうと。

自分のどうしようもない他人に対しての嫌な部分。

たしなめた罪人が自分は罪を犯したのだから当然の報いだと、受け入れたこと

エスキリストがお救いになったこと

私も今、これを聞いて救われているのだと、唐突に自覚した。

その瞬間から回りの空気が柔らかく感じた。それは不思議な感じであった。

嫌いな上司のことも気にならなかった。あの人にはあの人の立場とやり方がある。ひとつ分かったこと。私が嫌っていたこと。その私はひとかどの者だろうか。私は自分の目の前の仕事をしよう。するべきことは山ほどある。

柔らかな空気を感じたままであった。

玄関先の花も緑も目に映る自然が皆、神から差し向けられたものに感じた。私はあなたを見ていますよ、というメッセージを感じた。東に昇った月は丸く、あたりを照らしていた。先のメッセージを強く感じた。

今までが、闇であったのだ。

私には衝撃的で感動的な瞬間だった。

この感動があれば他に何もいらない。思い煩わない。

 

その瞬間を留めておきたいとともに

誰かに伝えたくなった。

けれども誰が信じるであろうか。目の前の夫に話したら馬鹿にされるだろう。

 

そう思ってここでのみ記すことにする。

追記

復活祭の日から3日前。イエス様がなくなった日に私はメッセージを受け取れたのであった。