疑い
私の職場には阿弥陀様の仏像がある。
毎日通りすがる。
背を向けていても見ていて下さる
といった張り紙もされている。月毎に替わるらしい。
見ていて下さるって思えたらずいぶん幸せだよね。私にはどうしてもそれが信じられないけど。
と思って毎日通り過ぎていた。
若い僧侶に聞いた。「なぜ信じられるのか」
「信じないで人生を送る方が僕は信じられない!不安に駆られませんか?信じるから安心して生活できるのに」
また別の若い僧侶にも言われた。「俺だって寺に生まれたけど、もし仏様がいるなら俺の貧乏を救ってくれよと思いながらバイトしてたよ。」
そう聞いても不思議にしか思われなかった。何を言ってるのだろう。羨ましくもあるけども。結局は仏様は人が作り出したものじゃないの?
阿弥陀様はどこから来たん?お浄土に帰る言うけどほんまにあるん?みた人おる?
という気持ちで法話もお勤めも見ていたのである。しかし唯一理解できたのは、人は自力ではどうもできない。自力というのは確実でない。不確かなものである、という謙虚な姿勢である。
疑いの気持ちがあると悟りは開かれない
とお勤めの教本にある。
エホバの証人もまずそこを洗脳される。
宗教は結局マインドコントロールだよ。と思う。
だけどもだ、神様が見ておられると実感した時から、それは疑いようのないことだ、と感じる。この涙は嘘ではない。感情的になっているだけだろうか?
あの時は何だったのだろう、何かにかぶれていたのか?と冷める時が来るのだろうか?
疑うという行為には、ひとまず信じる感情は置き去りにされる。
思考している間に何か自分が世界を分かったようないい気分になるかもしれない。
けれども思考の果てに自分が、もうそこから何も考えられないという崖っぷちに突き当たるのだ。その崖の下も上も宇宙が広がる所にいるような。私の場合は眠くなる。
自分が、ここに、ある
ことしか分からないのだ。
結局疑いきれない。
それならば疑わないで生きる方がよっぽど楽であろう。
今はそう思える。何故信じるのか?私も聞かれたらこう答えるであろう「信じないで人生を送る方が信じられない」と。